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「染太郎」年代記(創業〜終戦)
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「染太郎」創業の地は浅草田島町六十番地。現在の本店の少し北西側でした。
当時の浅草は大エンターテイメント地域。浅草寺を一区とした浅草公園の六区は
映画、演劇、レヴュー、奇席など,当時の娯楽を取り揃えた劇場が立ち並び、連日
大賑わい。その隣、田島町には芸能事務所やそこに出入りする芸人、踊り子、役者など
芸能関係者が多数暮らしていました。
昭和12年(1937)、日支事変の勃発に伴い、漫才師だった旦那さん(林家染太郎)
が軍に応召されて、幼い息子と二人で留守を預かっていたオカミさん。ブラブラしていている
のも能がない思っていたところに、自宅の二階を稽古場に貸していた剣劇一座の座付作家から、
元手のかからないお好み焼き屋でもはじめたら?とすすめられ、自宅の一階に開業したのが始まりです。
狭い路地のしもたや、玄関のガラス戸を開けて狭い三和土に入るとすぐに3畳間と6畳間、そこへ大きな火鉢
に乗せた鉄板を置いただけ、というような急仕立ての店でしたが、すぐに芸人達の社交場として繁盛しはじめ、
最初はなかった店の名前も常連客、作家の高見順氏が少々の安普請もむしろ風情として味わってもらおうと
「風流お好み焼き」、屋号を旦那さんの芸名からとって「染太郎」と名付けました。
(いまでは既製品にあるほどお好み焼き屋ののれんに定番の「風流」ですが、これは「染太郎」が最初。
もとはこんな理由だったんです。)
昼には仕事がない芸人が油を売っているところへ出番の合間をぬってレビューガール達が六区の劇場から行き
来して腹を満たし、夜になればフラリと文士が立ち寄り、そこへ仕事を済ませた芸人、演出家、踊り子たちが集
まって来て、ひとつしかない鉄板を囲むうちに双方入り混じって、ワイワイガヤガヤ。その横には女将さんの幼
い息子が寝息をたて、2階では相変わらず稽古が続いている。三和土には足の踏み立てる隙もないほど履物が脱
がれ、もう店はいっぱい。そのうち宴にも興が乗って・・・といった、にぎやかな光景は日常の事、その様子は
昭和14年発表の高見順の小説「如何なる星の下に」にも描写されています。
女将さんの飾らない人柄やもてなし、店の気取りのない雰囲気に触れた客は一緒に楽しもうと仲間を連れてま
たおとずれます。その仲間が別の仲間をつれて来て・・・とお客さんは増えていき、一日中、客の絶えない繁盛
ぶりでした。
しかし戦争は第二次世界大戦の勃発、昭和十六年に太平洋戦争と年を追うごとに激化、六区興行街の出し物も文
化統制を受けて活気を失い、劇場には看板の変わりに戦局地図などが張られるようになって、芸人などお客さん
の中にも兵隊や軍需工場へ行く人が増えていきました。戦局が悪くなるにつれ物資も乏しくなっていきますが女
将さんの努力で「染太郎」は変わらず店を続けます。しかし戦火はとうとう東京へ、昭和20年3月10日の東
京大空襲で東京東部はモノも街も人も見分けがつかない真っ黒な瓦礫になり、これにより浅草一帯も興行街を含
めて焼失。最初の「染太郎」も焼けてしまいました。
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「染太郎」年代記(戦後〜昭和30年代)
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そして、終戦。田島町に戻った女将さんは誰よりも早く焼け跡の中にバラック小屋を建て、焼け残った鉄板
を使って営業を始めたといいます。それが田島町十三番地、今の「染太郎」の場所です。
なにしろモノがない時代、材料不足で食べ物屋を開いている事自体が難しいような時代です。お客さんは匂
いに誘われ自然と集まって来ましたが、女将さんはさらに喜んでもらおうと努力を続けます。付近は壊滅、酒
屋もないので疎開先の市川から酒屋で仕入れたビールを両手両肩に計28本、息子にも6本持たせ、人々の殺
到する電車に揉まれて浅草通い。市川にあった家を移築して今も続く本店の建物を建てます。店の体裁が整う
と、戦争で散り散りになった常連さん達も場所を移した「染太郎」を次々と発見。また店に来てくれるように
なり、以前と変わらぬ活気を取り戻しました。
朝、起きると煮炊きに使うまきを割り、鉄板用に豆炭を起こしている間に昼。材料の仕込みをして夕方には
馴染み客が3人、5人と次々現れて大変な混みようになり「おばちゃんご馳走様、また来るよ。」の声には「あ
りがとう存じました、またどうぞ。」と入口に座って頭を下げて送り出す。最後の客を見送って、あとかたずけ
を終えると2時、3時。お手伝いの女の子も来てくれるようになりましたがそれでも手が足りないほど。創業か
ら長い間、商売はお好み焼きでさせてもらっているのだから他で儲ける必要はない。と公定価格のまま出してい
たビールですが、この時代で「空き瓶代だけで大学教授の月給ぶんぐらいあった」というのですから、日々、何
組ものお客さんが大変な数のビールを空にしたことが覗えます。
同時に2階は踊りの稽古場と駆け出し芸人や新人ジャーナリストに間貸し。食事代など払っていなくても、
女将さんは「お金がある訳ないんだから」と、度々一緒にご飯を食べたり、身の心配をしてくれたそうです。
また、坂口安吾や田中英光といった無頼の文士達が何日も居続けては原稿を執筆するのが増えたのもこのころ。
知人が訪ねて行くと下着にステテコ姿で現われ、まるで自分の家か旅館のように振舞っている人達がいつもたく
さんいました。酔いつぶれる、夜中に原稿用紙がどうしても欲しいと言い出す、執筆中はそばで座っていろと寝
かさない、等々、その度に手を煩わされていた女将さんですが、生来の面倒見の良さとでもいうか、出入りする
人は一手に面倒を見ていました。
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「染太郎」年代記(昭和40年代〜現在)
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様々な人々に愛されながら繁盛を続けていた「染太郎」ですが、全国規模の有名店になったのは高度経済
成長期にさしかかってから。人々に観光する余裕が出来、文士や芸人ゆかりの店として雑誌などに取上げら
れるようになると、若い世代や観光客が各地から押しかけ、店の外には開店前から長蛇の列。予約しないと
入れないほどになり、その予約も先までいっぱい。昔からの常連さんもフラリと立ち寄るような事が出来な
くなって様子を覗おうと電話をすると女将さんも「まぁ、えらい事になってしまいましてなぁ」と目を回し
ていたとか。それでも、人の好きな女将さん。「だったら休みの日に来てくださいな」と、旧知のお客さん
は休日にこっそりもてなしました。
こうして昭和の名店になった「染太郎」ですが、その立役者である女将さんもこの頃にはすでに70代。
徐々に店をマイペースで続けられるようにしていきます。まず、土曜、日曜はいちばんお客さんが多くて身
体にこたえるから休み。昭和45年から8月は一ヶ月の夏期休暇、さらに完全週休3日制。営業時間も午後
6時から10時まで。「だって体が持たんもん」と、商売気はまるでなし。また、オイルショックによって
物価が急上昇すると飲食店も軒並み値上げをしましたが、「染太郎」も浅草の多くの店と同じく値上げ無しと、
ここまでは下町の心意気。ところが女将さんはいつまでも値上げをしませんでした。昭和48年、やきそば
70円、牛てん50円・・・。昭和49年、やきそば70円、えびてん70円、パンカツ50円・・・
10年前からほとんど値上げなし。いまどきあまりにも安すぎるので少しは値上げしてください。と半分
ユーモアの要望書が地元商店会から渡されたり、常連さんの方から値上げしてくれと何度も望まれますが、
女将さん「これでも食べていけるから」とその度に断わりつづけました。一人で切り盛りするようになると、
店はセルフサービス制に。お客さんに注文伝票を書いて台所に持ってきてもらい、用意ができたら名前を呼ん
で取りに来てもらって、あとは焼き台で銘々楽しんでもらうスタイル。お客さんは自然と空の皿を運び、中に
は廊下の雑巾がけまでしていったお客さんもいたとか。
このユニークさがまたまた評判を呼んで、人気は落ちるところを知りません。
昭和50年には、「染太郎」と共に育ってきた長男、仁彦氏が市川駅前に支店を開業。
その後もデパートに進出するなど「染太郎」の名前は拡大、浅草では80歳を越えた女将さんが変わらぬマイ
ペースで店を続け人気を博していましたが、さすがの女将さんも年月には勝てません。87歳になった昭和
56年、二の酉の日をもって、多くの人々から愛され慕われた名物女将、崎本はるさんは引退。まさに、はる
さんの店であった「染太郎」浅草本店は一時、存続を危ぶまれます。
しかし、翌昭和57年、意志を継いだ仁彦氏が店内を一部改装して再開。年中無休に戻って「染太郎」は
二代目の時代を迎え、建物や人気をそのままに今日に到っています。
「染太郎」の舌代(メニュー)は、創業から戦前には銭を仙。戦後物価が跳ね上がってからは円を縁。と書い
て張り出してありました。それぞれ人が山と来る。縁で人が寄り合う。という縁起をかついだ当て字ですが、
これは新しいお客さんにも古くからのお馴染みさんにも、今日一日の縁を大事にして一生懸命サービスし喜ん
でもらおう。という「染太郎」の商いの基本です。
二代目は言います。「ウチはお好み焼き屋だけど味を売っているというよりは、店の空気、雰囲気を売って
るんだよな。こだわりを売ってる食べ物屋もあるけどさ、お好み焼きや鉄板焼きなんてのは味の工夫なんて言
ったってたかが知れてるしね。お客さん達がここへ何をしに来るかって言うと遊びに来るんだからね、仲間と
しゃべったり食べたりしにさ。鉄板でお好み焼きを焼くのだって遊びなんだから。ウチに来たらこだわりなん
て捨ててさ、好きなだけ飲んで食べて、好きに楽しんで遊んでって貰いたいよね。これはさ、オフクロの頃か
ら変わってないよ。」
「染太郎」を訪れると不思議なぬくもりが漂っていると感じる方もいるはずです。それは創業の昔から多く
の人が魅せられ、それを求めて幾度ものれんをくぐったのと同じものでしょう。文士、芸人、有名人に無名人、
貴賎老若・・・いつも誰もが、同じぬくもりを求めてここへやって来ていたのです。
変わったのは人や街、世の中でしょう。「染太郎」は変わらず、お越しをお待ちしています。
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