浅草染太郎はお好み焼き・焼そばのお店。
おかあさん。おばちゃん。おばあちゃん。親しみを込めて呼ばれていた「染太郎」先代女将崎本はる。芸人、文士、記者、画家をはじめ、お客さん皆に慕われた。染太郎の心であり大看板。その忘れがたく愛すべき面影をご紹介します。



 

 
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                  名物女将 崎本はる

    おかあさん。おばちゃん。おばあちゃん。・・・親しみを込めて呼ばれていた「染太郎」の女将さん、
    崎本はる。芸人、文士、記者、画家をはじめ、お客さん皆に慕われた。この人こそが「染太郎」
    の心であり大看板でした。その忘れがたく愛すべき面影をご紹介します。


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               創業期  
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 はるさんは1896年(明治29年)大阪・上本町の生まれ。
清水谷女学校から当時日本領だった朝鮮・京城に渡り、京城中学に学んで23歳頃
まで暮らしていました。帰国後は岡山で清元を教えていましたが、芸で身を立てよ
うとしていた崎本貞次郎さんと知り合い、結婚。
 
 昭和7年、娯楽のメッカ浅草の芸人横丁、田島町にやってきます。崎本家は代々
芸事をなりわいとしており、貞次郎さんも清元・長唄の名取り。林家一門に入門し、
生粋の東京漫才を作ろうと林家染太郎・染次郎として売り出しました。朝刊に題を
取った即興の時事諷刺に清元や三味線、踊りを交えた芸はお座敷から声がかかるこ
とも多く、浅草松竹座に別看板として出演したり、ラジオでも人気がありましたが、
当時の芸人稼業は裕福に暮らせるような商売ではありません。この為、はるさんも
身に付けた清元や三味線で家計を助けていました。

 昭和12年、その旦那さんが日支事変の勃発に伴い兵隊へ。前年に生まれた息子
と留守を預かる事になったはるさんは、自宅の一階でお好み焼き屋「染太郎」を開店
することになります。

 その一因には亭主がお国の為に兵隊へ出ているのに三味線や清元の芸事をやって
いるのは世間体も亭主にも申し訳がないとスッパリ辞めてしまったこともありまし
たが、その潔さをかって店を盛りたてようとしてくれる芸人仲間やお客さんも多く、
人から人へ繋がってお客さんは増え、芸能関係者、文士達を中心に繁盛し始めます。

 この時はるさんは数えで42歳。すでに人生経験を充分積んでおり、女学校や中学
を出てこの時代の女性としては教養も高い上、芸人の妻として砕けたところも持ち合
わせていた事から文士たちインテリの話し相手になれたのも助けになりました。



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               戦前〜戦後  
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 「どんなときにも来てくれたお客さんは分け隔てなく大事にし、楽しんでもらって
送り出す」 はるさんの実践した「染太郎」の信条は創業からのものでした。
世間話の相手をしたり、相談事には親身になって付き合い、楽しい席にはさりげない
サービス。お客さんが一人でもいる間は時間が来ても店を閉めず、楽しみが過ぎて
酔いつぶれれば店に泊め面倒を見ました。のべつ客があって風呂屋に行けず、行水し
かできなかったり、深夜に最後の客をありがとうございましたと両手をついて送り出
すと息子をおぶったそのままの姿勢で突っ伏し寝込んでしまって、起きると額に敷居
の跡がへこんで残っていた。などということがあっても休みなく営業を続けお客さん
を迎えました。

 第二次世界大戦が激化していく中で店を波に乗せ、戦局が悪化しても懸命に営業を
続け繁盛させていたはるさん。しかし、この戦争で亭主の貞次郎さんは戦地での負傷
から家に戻ることなく永眠。店も東京大空襲で浅草の街と共に焼失してしまいます。

 しかし、終戦を向かえると、市川に疎開していたはるさんは、いち早く田島町に戻り、
「染太郎」の再建に意欲を燃やします。バラック小屋を建て、店の焼け跡に残っていた
鉄板で営業を始めると、すぐに市川から家を移築して、そちらに移り、本格的に店を再開。
今でも続くこの建物は当時バラックばかりの浅草でひときわ目立つ存在だったそうです。
さらに移築建増しして2階が出来ると乞われるままに芝居、踊りの稽古場と新人の芸人や
新聞記者に下宿として間貸し。お客さんも戻ってきて、戦前と変わらぬスタイルを取り戻
します。



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             はるさんと常連さん 
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 「オバチャン、元気!」が常連さんたちの挨拶。いつも自分の家に帰ったようにやって来ました。
その誰もが自分がイチバンはるさんに可愛がられていると胸の内で思い、家に招くように仲間と
連れだって来るのはもちろんのこと、家庭のある人は親戚を訪問するように家族を連れて訪れ、
はるさんに紹介していました。

 そうした人々の送別会やお祝いの席が店で持たれると、「わたしにもお祝いさせて」と損得抜きで
特別なもてなしをするのも常でした。戦後のある会ではメニュー以外に厚切りの牛肉、鯛の尾頭付
きなど当時では見る事すら難しい食材が次々と出て、合成甘味料ばかりの時代に砂糖と小豆でおし
るこ、さらに洋モクを一人一人にプレゼント。と当時の庶民では考えられないような鉄板焼きの
超フルコース。モノがない戦中戦後、「染太郎」には闇で仕入れるのも難しいはずのものがいろいろ
とあったそうですが、はるさんにはその人柄から自然に出来た特別なルートがあったのでしょう。
その上、どんな言い方をしても、決して代金を受け取らなかったというのですから、チョット強情な
所もあったのかもしれません。

 また、配給制の時代には過去の実績に応じて割り当て量が決められ、いつも繁盛していた染太郎には
他より多くのビールがきていましたが、それを知った同業者がこっそり分けてくれないかと闇値を条件
に誘ってくると「うちのビールはお客様のものです。ここで飲んで行かれるのやったらお客様ですから
お出ししますけど、お売りするわけにはいきません。」と裏取引を一切断わったり、地回りのヤクザが
金をせびって来ても、ウチはそういう商売はしていませんからどうぞお引き取りくださいときっぱり断
わっていました。

そうした裏表のない人柄は誰からも信用されて、人の相談に乗ることも多かったそうです。



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              はるさんと猫 
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 はるさんが、店にやってくる芸人さんや文士、下宿していた人々・・・等々、一手に面倒を見ていた
のは先にも述べましたが、実は面倒を見たのは人間だけではありません。昭和30年ごろから2階で空
いていた1部屋を猫部屋として6〜8匹の猫に提供し、多い時には20匹近くの面倒を見ていたのです。

 その愛猫家ぶりはNHKニュースで紹介されたり、雑誌にも掲載されるほどでした。なかには名前を呼ぶ
と返事する猫や「ここよ」と言うと乗っかって足踏みをしてくれる肩もみ猫、乞われてTVに出たタレント
猫もいて、特にはるさんのお気に入りはキヨコというペルシャ猫だったようです。多くは路頭に迷ってい
た野良猫を迎え入れたものですが、生来面倒見の良いはるさん、来るものを拒まず受け入れ、猫部屋に入
りきらないようになると一階の廊下の両側に金網付きの箱が重ねて並ぶようになり、一匹ずつが呼応する
かのような唸り声はどこかの動物実験室のようでトイレ行きもちょっとはばかられるようだったと評する
お客さんもいました。他の愛猫家と同じく、猫達を誉められれば我が事のように喜び、猫が苦手でチョット
困ると言う人には、めずらしく「嫌なら来ないで頂戴!」と激する場面もあったとか。

ある時を境に数は減っていったものの猫との関係は晩年まで続きました。店の営業前後のひととき、たく
さんの猫達と戯れるはるさんの姿が数々の写真に残っています。




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             ライフワーク営業 
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 こうしたはるさんの人柄と店の魅力やユニークさは人から人へ自然に伝わり、ちまたでは評判でしたが、
それがマスコミに伝わって多く取り上げられるようになると、あっという間に行列店に。普通の商店主なら
ホクホク顔でしょう。しかし、はるさんの反応はチョット違いました「まぁ大変な事になりましてな。
「ノンノ」に店のことが出てからナンや東京名所みたいになって、いえ本当ですぜ、開店前から店の前の
通りに長い列が出来てお客が雑誌を手に来るわ来るわ、こないだも九州から来たんだから何とか入れてくれ
という人があって、入ってもらうにも入れませんが。いやえらいことになりましてな。・・・」請われて取
材を受けていただけなのに予期せぬ大人気。お客さんに来てもらうのは嬉しいけれど、相手をするにも手が
回らないし、食べたら帰ってくれなんてトンでもない。行列して待ってもらうのも申し訳ないのに、入って
もらう事すら出来ないなんて、ホトホト困った。というところでしょう。困ったあげく、ついに予約制に。
その予約も先までいっぱい。昔からの常連さんも簡単には入れなくなってしまい、これにもはるさんは胸を
痛めていました。

 いずれにしても、連日の激務はすでに70歳を越えた身体には厳しすぎます。ここで、はるさん「だって、
もうからだがもたんもん。それにあたし、この仕事、死ぬまでやりたいし・・・。のんびりやるしかしょうが
ないでしょ」とマイペース宣言。大胆に営業を縮小します。「土、日は客が来すぎて疲れちゃう。」ので休み。
昭和45年から8月は全部暑中休暇。46年からは「ついでだから」と完全週休3日制。営業は午後6時から
きっかり10時まで。それでも予約の電話はひっきりなしにかかってきたそうです。

 こうして自分に合わせて休日を増やしたものの、昔からの常連さん達が連絡をくれると「だったら休みの日に
来てちょうだいよ」「休みの日に来るのは、お客さんじゃないんだから」と身内扱いで裏口から迎え入れてい
たので、実際にはほとんど完全な休みはなかったようです。でも、はるさんにしてみれば気心の知れたお馴染
みさんをのんびりともてなすのは、リラックスの出来る、この上ない楽しみだったのかもしれません。「おい
しいものを安く、誠実に、お客さんに提供すれば必ず繁盛する」これは、はるさんの商売上の信念でその心は
代替わりした今も変わりませんが、昭和40年代、こんな事がありました。

 オイルショックで物価が上昇して、飲食店が軒並み値上げしても「染太郎」では10年以上ほとんど変わらず、
お好み焼きが何十円という単位。これは、据え置きすぎて、その御時世の価格破壊にあたり、それではあまりに
安すぎるので、ひとつ値上げをしてもらえませんかと地元商店会からユーモア半分の要望書が渡されましたが、
「これでもやって行けるから」とそのまんま。常連さん達からも、もうチョット上げてくれないかと度々請われ、
一時は値上げ要求運動でもしようか、という話にもなったそうですが、「そんなことしたら、店を辞める」と
はるさんは強く突っぱねたそうです。

 その信意は、はるさんの言葉に現れます。「だって、幾らお金を貯めてみたところで、地獄には持って行けま
せんもの」「お金をあの世へ持っていっても仕方ないじゃないの。生きてる間は、こうやって皆さんと楽しく
やんなくちゃ」もう息子も一人前になったはるさんはお金を儲けるよりも、出来るだけ長く店を続け、お客さ
んに来て喜んでもらい、自分もそれを楽しみたかったのです。



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             引退まで 
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 その後もはるさんのライフワーク的な営業は続きます。昭和49年には営業は一日置き。この時点で
はるさんは80歳を越え、店を開いた翌日はグッタリ。それでもその翌日には昼過ぎまでうつらうつら
していても、4時には血がじわじわと巡り始め、ぴったり5時には起き上がって、6時にシャンと店を
開けた。といいますから大したものです。お手伝いの女の子達もお嫁に出ると、セルフサービス制にして、
ひとりで店を切り盛りしていました。

 店を訪れた芸人、文士などに記念の色紙を書いてもらっていたはるさんですが、この時期になると、はるさん
の名物女将ぶりもすっかり有名なり、お客さんに囲まれて写真を撮られたり、請われて色紙を書くのも日常の
事になりました。

 また、創業から40年を過ぎ、店が年を重ねたように古い時代の常連さん達もそれぞれ晩年を向かえます。
入院中のベットから自分の集まりは今年も変わらず「染太郎」で、と指名し、病院を抜け出してまで出席した
人。最晩年、突然思い出したように、どうしても「染太郎」に行きたいと言い出し、無理を押して来店。はる
さんとの再会には付き添った家族の目もはばからず、抱き合い涙した人・・・。

 自分の人生を振り返ったとき、浮かび上がる光景にある、あの頃の自分と「染太郎」。変わらぬ店や気丈に
営業を続けるはるさんとの再会は言葉にならない感慨深いものだったに違いありません。そうした思いは同じ
ように晩年を向かえていたはるさんにも強くあったのでしょう。息子さんが古臭いお好み焼き屋なんかやめて
新しい形式の店にしよう。せめて建物だけでも近代的に建替えようと即しても譲らなかったと言います。

そして昭和56年、体調を崩したのを期に、毎年、高見順氏を偲ぶ会が行われてきた二の酉の日を持って、
はるさんは引退。名実ともにはるさんの店だった浅草「染太郎」本店はこの日限りで閉めることになります。




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               晩年 
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 しかし、翌昭和57年も高見順氏の二の酉の会は変わらず行われました。長男、仁彦氏がはるさんの意志を
全面的に継ぐ事を決意。オフクロが培った店の歴史を誇ろうと展示スペースを設け、代替わりしてこの日から
再開店したのです。

 一方、引退後、はるさんは長く入院。店の再開は退院直前まで知らされていませんでした。でもこれは、はる
さんの性分をよく知った息子さんの思いやり。退院の目途がついて「順調にお客さんも来てくれている」と打
ち明けると、それはおかしい、自分がいなければうまくいくわけがないと店に出られないことを案じて、いて
もたってもいられないようだったそうです。

 米寿を迎え、浅草に戻ったはるさんは「染太郎」の変わらぬ店舗と繁盛振りを見て感極まり涙したといいます。
その後、入退院を数度繰り返しながら店の二階で暮していたはるさんですが、昭和61年。明治、大正、昭和と
三代を生きたその生涯を閉じます。

 お葬式は、親しかった常連客や店にゆかりのあった人々の多くは鬼籍に入り、はるさんが見送った後だったので、
大変、慎ましやかなものだったそうです。


 はるさんの人柄を評したこんな文章があります。「たくましい庶民、しっかり者の大阪人であると同時に気風の
いい浅草人。上方と江戸の良いところがとけあっている。」「苦労や経験に裏打ちされたオバさんの座談は人生
智に満ちて活気があり、いつも面白かった。その話が聞きたくて染太郎に通った。」

 自分の分と、足るということを知り、欲を張らず、遊びの感覚ともてなし、商売人であることと自分の性根と
のバランス感覚、客との間合い、客というよりも人生での他人の大切さ、何より人と人のつながりはどこから生
まれ、何が繋げているのかを心得ていた・・・ 

染太郎にはそんなはるさんの心が今も生きています。





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